昭和46年09月23日 秋季霊祭
大変今日は暑いから、共励殿に1回あの、下がらせて頂いて、あの大テーブルの前に座らせて頂いて私は、とにかく芯から冷えてるんですよねあそこは。あぁ極楽と言うた途端にここにカチッとおいさみがありましたよね、今日の御霊様はね、皆さんの真心でね、例えば御先祖の御霊様が、もう暑うて暑うてかなわんと、言っておられるので御霊様がね、例えば今日だけは、あぁ極楽と、仰っておられる程しのおかげを受けておられる事は、絶対私は信じます。皆さんもそれを信じなければね。
今日のお祭りの値打ちはありませんね。はぁ極楽と、そりゃぁ暑い汗ぶるぶるの中から、涼しい部屋に入らせて頂いて、思わず私の口からでたのが、あぁ極楽だった。途端にカチッとおいさみですからね。だから私は、今日の御霊の助かっておられるというか、今日の御霊のこれは声だとおもいましたね。昨日今朝でしたか、久留米から今大塚さんという方が、親子3人で熱心に、朝参りをなさっておられます。
非常にこの方は、あのある教会に参っておられたが、霊徳にふれて行かれるタイプです。夫婦で毎日お商売にでられるんです、自動車で。あれ、神様から色々お知らせも頂かれるし、触れられるが、昨日、今朝方の夢の中にですね、自分が娘時代に知っておった門内のおばあちゃんがね、見えられてからね、もうとにかく霊の世界のね、苦るしゅうて苦るしゅうて応えん事を訴えられたという事ですね。
決してその方、おばあちゃんが悪い方でもなかった、だからね御霊の世界だって、人間の世界だってです同じ事ね、お金はあっても、人間関係で苦しんだりね、人間関係はスムーズに行っておるけれども、家ん中は火の車で苦しんでね、それこそ病気の床の中に、信心しておると言う様な、人達もあるようにです、やはり御霊の世界だって同じ事。私は今朝からある方に話ましたけれど、もう本当に私は、まぁ例によって、昨日もちょうど2時半までかかりました。
御霊様今日のお祭がスムーズに受けられる事のためにです、ちょっとまじないをしとかにゃでけんね、それで今日の御霊のお祭りをスムーズに受けられた。その受けられた御霊様達がです、もうそれこそ、今日だけはですね、大坪総一郎の信心によってです、また皆さんの真心によって、信心によってです、どういう苦しい中にあっても、今日だけは、極楽と暑い中から、涼しい冷房をしてある部屋に入られたくらいの有難さという物をです。感じられたに違いはないけれども。
その冷房の室を一歩出たらまた、暑い世界に戻らなければならないというのが、御霊様達の、いうならほとんどの実状であります。何のために私が、あぁ極楽と言う時、おいさみを持って神様がそういうお知らせをくださったかという事をですね、皆さんが一遍信じて下さららなければね、信心が成り立たんです、金光様の御信心はね、小倉の初代それこそまぁ大変な御神徳を受けられた先生でございました。私共のいわゆる九州の御本部ともうしあげておる、小倉の元の教会長先生が、大変な病気になられた。
御本部から電報が来た。奥様が金次郎様と言う、小さいお子様を伴のうてね、それこそ危篤状態と言う電報を受けて、御本部へ行かれたね、御本部で金光様のお取次を頂かれてね、桂先生いわゆる主人が、こういう大病を、こちらで患っておりますからと、お届けをなさってから宿に行かれた。所がですね、その奥さんと金次郎様がね、お宿につかれた途端からです、桂先生のさしもの病気は良くなっておる。それに入れ替えの様にですね、金次郎様がやすみつきなさった、その場で。
そしてとうとう、小倉に帰られる前に、御本部で亡くなられる、御霊地で亡くなられた。今、もうそこの所の後がございませんけれども、あの御本部の、今のご造営のある前は、あそこへ金次郎様の、おー奥城がございましたですね。それでお参りをすると、あそこにもお参りを何時もさせて頂いておりました。小さいお墓。時の宿老と言われた、いわいるまぁ教官をなさっておられた佐藤宿老がね、三代金光様の奥様のお父様であります。が歌を送っておられます。
いとし子が親に代わりて逝きにけり、真の道をたどりだどりて”とこっちの御聖地の裏に刻みこんであります。そういう不思議な事があるもんですね。お父様はまぁだ教団にとってもなしには出来ないお方。そのためにです、神様はこう身代わりをたてられたね。しかも親に代わって逝った。小倉教会にご縁を頂きます私共が、御本部参拝をした度にね、お参りをして、お礼を申させてもらうね、恐らく九州の信心がある限り、この御霊様は皆にご恩、恩人として拝まれなさる事であろうと思いますね。
その御霊様のお祭りの1年祭を仕えられます時に、当時の桂先生といや大変な色んな、お役をなさっておられました。それで本部の偉い先生のお祭主を願って、墓前祭を仕えられた。ところが本部の色んな御用のために、その墓前祭に間に合われなかった。それで、まぁ急ぎ、墓前に参りまして、遅うなってすまんじゃった、すまんじゃったと生きるものにもの言うように、墓前でご挨拶をなさると、ね、
神様、御霊様のお声が響いてきた。今日はね、大変偉い先生方で、何人までにぎやかな墓前祭を仕えて頂いたけれどもね、お父様の顔が見えなかったから寂しかったと仰る。はぁすまんすまんち仰った。もう墓前祭で、あのご祈念で一生懸命おお話しなさるそうですもん。それで奥様が何でしたかち言うてから、お聞きになったら、今ね金次郎の御霊が出てきてから、偉い先生方にはお祭りをしてもろうて嬉しかったけれども、お父様の顔が見えなかったから寂しかったっち。
お家に帰ったらすぐにお祭りしようぞ、て言うて帰られた。で帰って、まぁにぎやかなお祭りをされたという話が残っておりますね、そういう例えばおとぎ話のような話をね、金光様のご信心をさせてもらうなら、それがね、それが情感として、または実感として信じられる心の状態を頂かなければ金光様のご信心は、生きた働きをなさらんのですね。それこそ、どれだけか分からないほどしの御霊様達がですね、合楽の御霊屋に、ご縁のある、例えば大塚さんの話じゃないですけれども。
子供の時に知っておったという門内のおばあさんですらがね、苦しいことをだから私は申しました。そりゃぁね、あなたに力が出来てきなさったからよ。力のなか所に頼って来たちゃなんにならん。金のなか所にゃ金借りにいかんように。やはり、そこに金が出来たから金も借りに行くのだと。力が出来たから御霊様が昔の縁をすがって頼って、あなたの所に頼りに見えたんだから、今日の御霊様のお祭りは大事にしなさいよとと言うて、今朝申しました事でございました。
そげな事があるもんかと言うたらね、その事だけでなく、金光様のご信心がもう無くなるんですね。桂先生のご信心の世界だけ、御霊様がござるのじゃぁない。事実を言うたら、皆の前に御霊様の例えば、願いもあってはおるけれども私共が、鈍感だから分からんのである。神様と同じ事。先日から、青年教師の方達の、信心実習会がここで一夜、一泊泊りでございました。一泊でございました。講師が私でした。
ですから毎日3時間、まあ座談会もふくめると4時間も話しましたでしょう。2日間ぶっ続けに御用させてもらいました。おかげでもう、健康の上にも大変おかげを頂いた。昨日なんか私もう、遺言せんならんじゃろうかちゅうごと、2時間ばっかりはきつかったんです。だからようこげな事がなかって良かった。本当におかげ特におかげ頂いておったなぁと言う事が分かりました。そういうお話の中にです、私は神様から頂いた、こうお知らせを頂いたというお話をですね、皆さんが非常に熱心に聞いて下さった。
金光様の御信心でもさせて、いや教師にでもなって、お取次をさせて頂くからには、やはり神の声も聞きたい、神様のお知らせも受けたい、けれどもその道を知らない。翌日の座談会の時に、その神との対話と言う事が問題になった。私と神様との対話、話し合い。ね、そん時に私はもうしました。片島せんという、大変お徳を受けられた女の先生がおられました。その先生がある時に、神様からお知らせを受けられた。いちいち神様にお願いをなさるといちいちご返事を下さるんですね。
神様が片島先生におっしゃる事がね、世界中の氏子に話がしてみたいと仰った。神様ってそんなお方、いわばいや何時も私共にね、ささやきかけ話し掛け、又はそれこそ鼓膜が破れるのじゃなかろうかと言う様な大きな声で、私共に話し掛けおって下さるのですけれども、聞く耳を持たんからせんがないと仰る。それで私はその事を、青年教師の方達にね、神様はいわいる私と神様の対話と言う事がです、まぁ問題になる。
けれども神様は何時もたえず、ささやき掛けておって下さるんだけれども、此方が聞く耳を持たない。受け物がない。そこで聞く耳を作るためには、どういう信心をさせて頂いたなら良いかという事になるのですよ、と言うてお話をした事でした。おかげの受け物を作ると言う事。いわいる聞く耳を作ると言う事。今朝からの御理解に、御理解44節でした。私は今日はその44節を頂いてひやっとした。あれは死中死節ですからね、44節と言う事は。死中死節と読む。
その御理解がです、狐狸ですら、神に奉られると言う事を喜ぶと言うではないか、とね、まして人間万物の霊長とあろう者がです、ね、信心させてもろうてです、死したる後神になり神に奉られる事を楽しみに信心せよ、というのが44節の御理解です。まぁ世間では、狐狸を祭るといったような、そう言う事もあるけれども、狐狸が神様になるはずは絶対ありませんよね、けどまぁ、そういう日本人の、まぁなんて言うですかね、庶民信仰とでも言うかね。
あそこの狐様、あそこの狸様と言うふうにして、ご利益さいありゃ、どこんでん狸にでん、狐んでん参ろうという人があるのが、過去私共の先祖である日本人がたどった、まぁ信仰だと私は思いますね、だから狐狸ですら、神に奉られると言う事を喜ぶ、まして人間万物の霊長と言われる私共がです、死したる後神に奉られ神になる事を楽しみに信心せよと言う事のご理解に対してですね、御霊様の言わば今日のお祭りさせてもらった御霊様達がね、矢張り何何の御霊乃神とこう申しますけれども、それとは違うです。
御霊乃神と言うけれどもね、なら仏教でもそうでしょう。死んだら仏様になるというけども、唯そういう仏様じゃ詰まらんのです。本当に極楽に行けれる仏様。極楽を感じられる御霊様でなかなければ、神とは言えない。今日私ご神前で頂いた事がどう言う事につながるだろうかと思わせてもろうた。そしたらこんな事を、まぁ分かりやすく言うならね、例えばキリスト教のこれは言葉でしょうけれども、あの十字架を背負うと言う事。大変難儀な、人達を見るとね。
そういう十字架を背負うて生まれて来た、宿命にあるのだとね、重たい物を何時も、いわいる苦しい物を何時も持ち続ける宿命にあるのだと。そういう意味で言うたら人間だれしもであろうと。だからそういう、宿命を持って生まれて来てるんだ、とこう言うんです。仏教ではそこん所をどういうかと言うとです、この世ではもう仕方ないからね、あの世でばし極楽にやらせて頂かにゃというので、五章を願う訳であります。果たしてそれで極楽行きが出来るだろうか。
教祖の神様はそこの所をです、神になり、神に奉られる事を楽しみに信心せよと仰った。もう大変な違いですよね。ですから、またの御教えにも、一生が修行じゃとおっしゃる、苦労とはおっしゃらん。しかもその苦労がね、丁度学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいとおっしゃった。歳をとっても、学者がめがねを掛けて本を読むようなものである。それはね、学問の知識と言うか徳と言うか。学徳が新しい知識がね、身に付いて来る事が楽しいのです。
だからそういう意味に置いての修行なんです。だから金光様の信心をしておる者が、もう一生が修行じゃから、もう病気で一生終ったとか。貧乏してから一生終ったと言うような事ではなくてね、その信心の徳と言う物が、身に付いて行くと言う事を、喜び楽しんで行くと言う事なんです。だから違うでしょうがね、金光様のならご信心を頂いておっても、そこが分からない人が、はー私共は金光様の信心しよるけん、子供が私を御霊様に祭ってくれるじゃろう。
そすと御霊様の神、御霊の神になられるから、と言うような物ではないと言う事。ね、この世で私共がね、生き神に成る稽古。金光様の信心の、もうそれこそ、まぁ一億おるならその一億がです、生き神を目指しての信心生活でなからなければならんのです。此の方の事を生き神生き神というが、皆もこの様なおかげが受けられる。皆もこれは、生神金光大神だけじゃない、私共もですね、もう生まれた時から生き神としての値打ちと言う物を供えて頂いて来ておる。
所がそれが我情になり我欲になり、そしてその我情やら欲が、これにこびり付くようについてしもうて、性までしまいには変わって来ると言う事になる。福岡の先生がよく話しておられました。タオルでももう洗いもせづに、煮染めんごと汚れたまま、汚れたままになっとると、その汚れからね、染みがしみ込み、しみ込んでね、タオルの性が変わってしまう。ビリービリするごとなる。人間でもそう。我情我欲を、私共がもう、これは人間じゃから嘘を言う事は当り前。
こんくらいの嘘は言わなきゃ世間はわたっちゃいかれん。このくらいくらいな良か、言わなっち言うて、その欲っちいうのがそれこそ人の茶碗でも叩き落としてからでも、自分が得をしようというような生き方。ね、我情我欲と言うものが身に付いて、段々もう染み込んで、その例えば良くない事でも、悪い事でも当たり前の事のようになる。そういうのを人面獣心というのである。人間の面はしておるけれども、心は夜叉にもひとしい。本当に心を鬼じゃろうか蛇じゃろうかというような人達がある。
平気で人を殺す、平気で人も物を、窃取する、取るね、そう言う事にまでなりかねないのが人間なんだ。いかに万物の霊長と威張ったところでです、私共が霊長としての値打ちを本気で作らせてもらおう、発揮させて頂こうとする、私は姿勢が金光様のご信心させて頂く者の姿勢でなからなければならん。信心とは我が心が神に向うのが、信心というのじゃ。わが心が神に向うて行く、様々な問題を通して、それを難儀と言うなら、難儀というてもよかろうがです。
その難儀な問題を通して、私共は一段、神の世界に近づく、神に近づいて行くと言う道を教祖金光大神は教えられたんです。だから大分違うでしょうが、他の宗教とは、それを一生ね、十字架として背負うていかなんと言うのでもない。この世ではまぁ仕方が無いからという諦観でもない、あきらめでもない。現実の問題をそのままです、それを神愛として受ける所まで信心を進めて行く。それを受ける事は、んなら見やすい事じゃはないから、それをんなら修行と思うてと言う事になる。
ところが学者が眼鏡をかけて本を読むような、はぁこの一修行させて貰うたら、又どの様な新たな知識が身に付くであろうか、どんな徳が受けられるであろうか、と思うからもう楽しいね、そういうおかげを頂いて行けれるのがお道の信心だと。死にさえすりゃ御霊の神になれるのじゃなくてです、私共がこの世で本気で魂を清まろうと努める、私は稽古をなさって行く所から、金光様のご信心には、それには必ず妙賀が伴なう。
喜びの、いわいるこれは信心をしなければ頂けない、与えられない喜びの妙という物が頂けれる。それが、暑くても寒くても、暑さを感じん寒さを感じんほどしの事に、段々なって来るのでありますね、お互い一つ、死したる後、神に祭られ、神になる事を楽しみに、私共がこう日々、はぁこう言う生き方こそが神に成る生き方だなぁという姿勢を持って行くと言うのである。これはもう合楽のある限り一つのお話の材料になるだろうと思います。事実なんだから。
もう4時のご祈念を下がって、丁度高芝さんと、日田の綾部さんがお参りになっとった。高芝さん丁度、娘ん所いかれ、そのそれ待っとれる間そこでお茶を頂いておった。そして、綾部さんと色々信心のよもやま話をさせて頂いて、私はお話させてもらいよった。とにかく綾部さん、この世には人間はね、清まり生きとるとですばいて、この世には。本気で清まっていかにゃいかん、これ例えばお釈迦様のお言葉をかりるならね、人間がこの世に生を受けたと言う事は大変な事。
それこそ天文学的なまぁ数字が出て来る。何億年たたなければ、またこの人間の体で生まれ出て来るとは出来ない。牛に生まれ変わったり、猫に生まれ変ったりして来るというような、経文の中にそれがある訳ですね。ですからこの世に人間として生まれて来たと言う事は、もうそりゃ大変なもう難儀な所を通り通って、山を通ってです、人間として生まれて来たのであるからね。
これが例えば、永世、何時までも、子供達のためにも社会の為にも、光はなげて行けれるような、永劫徳のある御霊、力のある御霊安心の御霊として、おかげの頂けれるような御霊にならせて頂くためには、もうこの世で本気で本心の玉を磨く以外にはない、魂を清まる以外にはない。私だんこの世に生を受けたと言うことに、そう言う素晴らしい、大変な意義を感じないといけないという意味の事を、申した途端でした、あの控えがですね、ダーンとはれるよう、あぁ何か割れるようなおいさみでしたね。
神様がね、その生まれ変われ説と言う事はどうか分からない。けどもこの世が私共が生まれて来たと言う事は大変な事だと言う事。しかも気付かせて頂いたらです、この世には本気で清まりに来たんだと、金貯めげ来たのでもない、贅沢しげげ来たのでもない、美味しいもん食べに来たのでもない。この世には本気で清める、いわいる持って生まれた万物の霊長としての値打ちをです。
おかす事なく汚す事なく、これをいよいよ清めた上にも清めて行こうと言う、霊性を高めて行くと言う事が、私共の信心であり、金光様のご信心はその事ばかりを教えておられます。それをお徳を受ける道とも言われます。金光教の信心は、おかげを頂ける、おかげを頂く道ですか、お徳を受ける道ですかと、この頃青年教師の方の質問があった。それで私は、申しました、金光大神の道はもうどこまでも、どのどこをひも解いてもね、お徳を受ける事だけしか教えてありませんよと。
信心してどうぞおかげを受けてくれよというおかげもです、信心しておかげを受けると言うおかげは、ただそれが治ったとか、頂いたと言う事だけではおかげにゃならんね、私の心が、真実助からなければね、私自身が助かると言う事の為の精進こそがですね、今日の朝の御理解を頂くならばですね、そのそれが楽しみだ。はぁ本当に有難い事じゃぁあるなぁと、勿体ない事じゃあるなあとね、それがそのままあの世にも持って行ける訳なのであります。もうこの世では、と言うあきらめじゃない。
一生十字架を背負い続けるのじゃない。新たな信心の世界に肉迫して行く、生神金光大神に近づかせてもらうね、そういう生き方を、いよいよ持ってさせていきたかなければならない。私は今朝の御理解に、その44節、死中死節という事を頂いてね、私共が四中と言う事こは、何時もという風な、私は今日は頂いた。感じた、そういう風にね、しせつというのは、何時も私は死んだ気でと言う事だと思った。
はあもう何時も何時も、毎日毎日死んだ気っち言うなら、そうにゃきつかろうごたるばってん、もうこげな楽な事はないですね、第一不平不足をいう事いらんです。もう20年も前でした。吉木の石井さんという所の、宅祭、宅祭りに参りました。私は大変うどんが好きだったと言う事を、聞かれてから、うどんを作っちゃった。もう行ったら、すぐ親先生、さぁうどんが出来ましたと言うてから、こんな大きなどんぶりにいっぱい具をいっぱい、こう入れてから。
まぁその当時としては珍しい具うどんが、食事に出てきた行ったら。それからおはしを取って頂こうとした所がどっこい、すめが入ってない。所が私はその時分に、言わば死んだ気でという稽古をしよる時でした。おいなりさんがものを言うはずはないですけんね、はーここは言うちゃならんとばいなと思うてから、すみをかけんなりに、ほとんど頂き掛けとったら勝っての方でしもうたー、ち言よんなさるです。
親先生のつには、すめばかけとらんやったですと、言うような事でしたけれども、例えばすめのかかっとらんうどんをですね、目の前に出されても、不平言う事はいらん。死んだ気になるという事は。ね、またそういう、おかげを頂かせて頂いたら、死んだ物が痛いも痒いも感じないように、それこそ痛いも痒いも感じない程しのお徳が受けられるのです。”死んだ気で、はげみつとめよ徳もつく。道も開ける人も助かるこれは20年前に、私が神様から頂いたお歌である。
言うならばこれはどういう事かと言うと。本気で我情我欲を取る稽古をさせて頂いての生活になれよと言う事です。そこには、我が身は神徳の中に生かされてある、その神徳が身に付いて来る。それをね、いわゆる感じさせてもらうと言う事。信心とは。秋永先生が、先日なんかの会合の時に、それこそしみじみと言うておられた。親先生もう本当に、ご信心を頂いておったと言う事が、合楽にご縁を頂いておったと言う事が、親先生を親先生として頂けておったと言う事がです。
もう私秋永友良一生のね、もう最高の有難い事だと最近感じます、とこう言う。最近感じよった、昔から感じとったからこそ、やっぱ付いて来とっちゃない。ね、ただそれがより垢抜けしたから、だけの事だ、じゃなかろうか、と言うて話した事でした。私と秋永先生の出会いの時からですね、私の師匠はもうこの人と決めた。しかもこの師匠が言う事がです、よし地獄道につながっておっても、さらさらいとわんという決心をつくって、信心の稽古をさせて頂いた。
ですから、そのくらいの事が言えよったんですから、有難かったんでしょうけれどもね、より解り、より有り難くなったと言う事なのですよ。と言う事はそのまま、神様へ近づいて行っておるという事なんですよね、だから、合楽に御神縁を頂いておったと言う事が有難いなぁという前にはね、もう例えば、不平も不足もないごたる心が生まれて来るはずです。ね、私が先日善導寺の親先生に、古希のお祝いの時ご挨拶を申し上げたように、親先生、私は最近三井教会にご縁を頂いておったと言う事が。
親先生を師匠としておった事がですね、最近はもう有難うして有り難うしてならん思いがいたします。その有難いという思いがです、いわいる和賀心につながると言う事も最近感じておりますね、本当に合楽にご縁を頂いておった事が、本当に有難いと思うたらね、そういう事にならなければならない、ただ都合のよか時だけの合楽ではそう言う事は生まれて来ないと思うですね。お互いがね、死したる後神になる、神に奉られる事を楽しみに信心せよという事をです。
今までは私共が死んだら御霊乃神になれると思うておったけれども、決してそんな事じゃない。そんならこの世が苦しいから自殺でもしたらもう御霊乃神になれるごとある。所がどっこい自殺をした御霊様なんかの苦しみというものは、それこそ見ておられんね、神様に頂いておるこの命をね、断つと言うんですから、こげなお粗末ご無礼があるはずかなかです。助かるはずがなか、もうそれは大変な事です。
こう言う御霊を助けると言う事は。ね、もうこの世でそわれんけん、あの世でっち言うちから、本当にそわれと絶対そわれとらんです。ね、もうその事だけの、ご無礼ででも苦しみの御霊、いわいる喜びの御霊にはなっていないと言う事です。お祭りが段々、進んでまいりまして、御霊様のあの神饌があります。その時にタバコが今日はお三方一台ありましたね。色んなタバコがお供してあった。正面にあの昔アサヒというタバコがあった。なんか知らんけれど感動した。
恐らくご主人か息子さんがね、昔の方であって恐らく、アサヒでなかにゃならんと言うて、タバコを飲みなさったお方ではなかろうかね、その御霊さまへアサヒのタバコを探し求めてお供をなさっておられるね、今日は洋酒の中に、あの小さいあの、ジョニクロの、洋酒をお供あっておりましたね。あれが目の前を通る時になんか知らんけれど感動したね。吉井の杉さんの所の、今度奥さんが沖縄から見えました。その沖縄に先日からいかれてから、こりゃ親先生にというてお土産に買うて来なさった。
その親先生にと言うお土産がです、絶対石井鑑三さん、いわいるご主人の御霊様に通じないはずがないです。ね、皆さんもご承知の様に好きなお方であったね、だから家内がね、沖縄から親先生にと言うて買うて来るような信心が出来て来た事を、御霊様が私は喜ばれるのじゃなかろうかと思うた。だから皆さん親先生にっち言うて持ってくるとは絶対御霊様に通うしね、神様にも通うとですよ。これはもう一貫したもんなんですよね、だからおかげを受けるのです。
例えばそれがです、そうではなかったにしてもね、そういう情感を育てて行くと言う事が信心だという事。私は昨夜、ご祈念終って、共励殿にまいりました。今日の楽のために、昨日一昨日から、まぁお稽古があっておりました。1時間ばっかりじっと稽古させて頂いておるね、笛は二管、篳篥は二管、笙が一管、琴4面太鼓1人やります。10名の方達が一生懸命にあの、今日歌を歌わずにひきました、あれは無声、素晴らしいその、優雅な曲ですよね。それをじぃと目を瞑って聞かせて頂いておりましたから。
先生がどんな風でしょうか、ちっとは上達しましたでしょうかって言うてから、そりゃ上達したかしないかは知らんけれども、私は今ここにじっと皆さんのお稽古ぶりを見せて頂いておって、どうしてこの様な事が出来る様になったじゃろうかと思うて、感動しておりますと言うて話した事でした。まぁだねようやく4年にしかならない教会が、どういう大教会だって月次祭に笙、篳篥が入ったり、楽が4人も5人も事があったり、と言う様な所はまずないでしょう。
それが一つ私が、楽が好きじゃけん楽を始めなさいと言うた訳でもないのに、此れが自ずとこう言う働きになって来て、こういうしかも熱心に皆さんが楽の稽古をなさっておられると言うことがです、どうして、どこからどういう働きがあるならば、こういう働きになってきただろうかと思うたら、感動せずにはおられん。私は信心はね、そういうおかげをおかげと、本当に感動して受けられるような心を作って行く事だと思うんです。だから何を見ても有難い、何を聞いても有難いと言う事になるのです。
そこに私共が、死したる後、神に奉られ神になるっと言う事を楽しみに、信心をするというのが御道の信心なんです。その楽しみと言う事がです、例えば合楽に参るとご利益が受けるから、おかげが頂けるから、と言うのではなくて。自分で自分の心が拝みたいような心の状態が生まれて来る。そう言う心が育ってくる。それが有難いのである。そこでんなら、生活の為に信心があるのではない、信心のために生活の全てがあるんだと、私は言っておるわけです。
そういう腹なのだどういう事であっても、自分の信心を育てて下さる事のために問題があるのだ。だからこれはお礼を申し上げていかなければならんというのが、最近ここで言われておる、御事柄として頂いて行こうと言う事ですね。そういう例えば信心の稽古をさせて頂いて行く限りです、力が受けられる、徳が受けられたら、それが印となって、人間の幸せに必要な一切のものが、健康が又お金が、人間関係の問題が、解決してまいります。そういうおかげが伴のうて行くと言う、生きた私は宗教だと。
もう本当に楽しいもうもう毎日毎日、答えが出てくるんだもん。唯どう言う事をです、それこそ、百巻の教典を暗唱しておりましてもです、ならそういう生き方をしておるにいたしましてもです、生きたものがなかったら、もう生きたものに触れる事は出来ません。金光様のご信心はどこまでも生神を目指す信心なんです。そこから生まれて来る死生観。私もまだ分からんからね、さぁ言うならもう引き取るぞと仰ったら、どう言う風に慌てるか、そりゃ自分でも分からんです。
もう惟はもう20年も前でしたでしょうか。朝方ご祈念前の時間にです、もうそれこそ何と言いましょうかね、もう深い所へこう落ちて行くのではなくて、深い所にこう進んで行っておるっち言うような感じ。もうそれが何とも言えん有難い有難い気持ちであった。目が覚めた、あれが死んで行く時の、状態ぞと頂いた。ははぁこういう状態なら、金光様有り難うございます有り難うございますと思うて、死んで行けるなぁと、これはまだ想像ですけどね、けれども私共は日々です。
生きた神様を、そこの働きを身に感じて行くからこそです、この調子でいけば、この心があの世にももって行けると言う事が分かる。この世で苦しみよってです、もうこの世では仕方がないから、あの世でなっとん救いを頂こう、極楽に行こうと言うたって、それは始まらん。一生十字架をからい続けるような難儀しておったら、死んでからでもからい続けなければならない事を、私は信じておる。
そう言う事ではいけません。この世ではもう本当に、いわゆるこの世は極楽だと言えれるようなおかげを頂かねばいけん。それには例えば最近申します、玉水の湯川先生が一切合切を有り難く受ければ、一切合切がおかげと。どのような場合でも、それを有難いとして受けて行きゃ、金光教はこの世で極楽、と仰っておられる。だからこれがこの世での極楽というのであろうかと言う様な体験をです。頂いて行くから、死に向って進んでも、あわてんですむのじゃなかろうか、と私は思うです。
必ず一遍は必ず行かなきゃならん所。そこには教祖様が、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるものと仰る、それをご神徳と言う。金光様のご信心は、そのご神徳を受ける道を、教祖は教えておられる。所がですなら金光様の信心者、信奉者が果たしてどれほどのご神徳を受けていっておるか、おかげは随分頂いていっておるけれども、ご神徳を受けて行くと言う生き方に、姿勢になっていない。でなかったら、例えばね死したる後神に奉られる事を楽しまない。
死したる後、神になる事が有難いとも分からん、事になるのじゃないでしょうか。そこで、私共がです、本気で我情我欲を、取らせて頂く稽古。それを一つ死んだ気でという気持ちにならせて頂いて、言いたいけれども言わん。と言う様な生き方を持って、修めていくならばです、それがどのように楽な事か、どのように有難い事かというのは、その次に答えが出て来るからであります。成る程言わんでよかったと、不平不足だん申し訳無くて言われんと言うような事になって来るですよ。
金光様のご信心を一つそこまで、高めてまいりませんと、金光大神がこの世にご出現なされた意義すらが無くなります。先代は、おかげを受けられたけれども、二代目はそうじゃないと言うような事でではでけん。あの世にも持って、この世にも残しておけれる信心とは、私共が死したる後神に祭られ、神になる事を楽しみになる所まで、一つ信心を進めて行きたい。成る程これならば、神になって行くぞと、行けるぞと言う、私は自身を持っての、生活が出来るおかげを頂きたいと思います。
今日はもう大変に、まぁ暑い日でございましたから、皆さんも大変にお暑かっただろう。私は、今日お話させて頂く前に、皆さんがまた、あの丁度私がここ一番始めに来たときのように、こう乱れてですね、扇子を使われたり、横座りどんさるならこりゃお話は出来んかと思いよりましたら、皆さんがやはりこうやって、それこそ暑さも感じんような、ご様子で、お話を聞いて下さった事を本当に有難いと思う。これが信心を頂く者の姿勢でなからなければならない。
どのように素晴らしいお話を頂いておっても、あの辺からでも聞きよったんじゃです、風が、この扇風機が来ないように、やはり側まで持ってきて、こうやっておおまえとるから風がここに来るのです。その風を受けさせて頂くと言う事が、お恵みに浴する事。今日の御霊様達がです、本当に今日一日は、とにかくまぁ有難い一日であったと言われるのは、丁度暑い所から、冷房装置をしてある所に入られたくらいな事であろう。けれどもです、御霊様が一歩そこを出られた所にはもう暑い所が待っておる。
けれども、その御霊様達に今日の話を聞いて頂いた。そしてこの暑い中にでも、涼しさを感じれる様な御霊ながらも修行せにゃならんと言う事を、感じ取って下さる御霊があるに違いはない。皆さんとても同じ事。成る程今は難儀を感じておるけれども、それを難儀と感じずに、それを神愛と頂かせて貰えれる、御事柄として頂けれる、信心を頂く事を皆さんが分かって下さるように、御霊様もやっぱり、私の話はこう聞いて下さってある。今日一番最初に玉串を挙げられました、堤さんはお子さんを亡くされた。
石井さんもそうであったね、それこそ目の中に入れても、痛くない程しのかわいい子供を亡くすると言う事は、親にとってこの様に難儀な事はない。ところが例えば、石井さんの場合を言うとですね、奥さんがその御霊様に対する所の信心が非常に強くなられた。毎朝晩、それこそ見事な祭壇を今度は、あの作られました、御霊様とお神様の部屋を、そこと定めて、神床と定めて、そこで朝晩あの、礼拝なさっておられるが、そりゃまぁ御霊様の方から入っていったね。
子供かわいいばっかりの事であっただろうけれども、この頃は、言わば神様の有難さというものが感じられる。昨日、一昨日でしたか、夫婦でこういうお供をしたいからと言うて、あの、2人参って見えられた。それでご祈念を終られてから、ちょいとちょいとと呼んで、私話した事でした。あなた方がね、今日夫婦でお参りをしたという事、お供は何をしようか、あれを、なっとこう夫婦で話し合って、ならこげんとばさせてもろうたらどうじゃろうかと言うて、話し合うて参って来なさった。
その事がねいかに御霊が喜んだか、いかに神様が受け取って下さったかと言う印を、このいっちょお届け帳ば見てご覧と言うて見せました。これは何時もそういう感じるんですけれども、あのここには石井というのは、この人達一家と、田主丸だけしかないんですよね。その石井の、信司さんが、一家中のお届けをした後の所へ、石井誠之助さん、石井陽子さんというお届けが来られた。
これを見ただけでもね、自分が参ったんじゃない、神様が参らせてくださったんだ、成る程こう言う印が、御霊が喜んでおると言う事を感じ取らせて頂けれる。神様ちゃ一分一厘も間違がいないなと言う事を分かる事が信心ばい、と言うて話た事でした。私金光様のご信心とは、もう日々刻々です。ほんと言うたら、もう刻々神様の働きちゃ恐れ入るなあという、恐れ入った生活をさせて頂く事なんですよ。それをおかげが山積みにここにあっておっても、それをこれで感知しきらない。
そげん御霊様がもの言いなさるもんかてなんてん、ちゅう考え方ではですね、そういうものをキャッチする事が出来ない。信心生活とはそれを感じ取る事が出来るから、有難い事じゃ勿体ない事じゃという、有難い勿体無いの生活が出来るのです。だから、結局その有難い、勿体無い、恐れ多きの信心生活がです、私共は神になる事を楽しみに、信心させて頂いておる事になる。または神に奉られる事のおかげが受けられる。
教祖様は、最近の御理解におっしゃっておりますね。生神様もうあなたは何時までもね、大谷の生神様、もう何時までも死なんと皆が思うとった。生神様が、金光大神が。というて、そんな事をご挨拶もうせたらい、生神様がおっしゃった。此の方とてもね、塩漬けじゃないとおっしゃったそうです。塩漬けならば何時まーでん悪うならんけれども。此の方とても塩漬けじゃないけれども、生神とは生き通しとは、死んだ後に、皆から拝まれる御霊が、永世生き通しぞと仰った。
だから私共がです、金光様のご信心を頂いて、言わば初代であり先代である、皆さんは。お父さんがこの有難い信心を残しておって下さったおかげで、僕達もと言う事になれば、この御霊は何時何時までも、子孫に家の恩人として拝まれる事になるじゃろう。それがいわゆる神になる事なんです。それにも金光様の信心ちゃご利益頂くぞ、おかげ頂くぞと、言う子供、言うとる様な事ではね、家の親父がもうこすかもんじゃけん、もうほんなもう、商売の事だけお願いに参りよるち言うごたる風になって来るんです。
だからそう言う事ではない。こう言う信心させて頂けおりゃ商売繁盛は願わんでも出来る。一家中が円満になって行く健康にもなって行く様なおかげがね、その中心の信心に、寄り添うて来る、伴のうて来ると言うおかげじゃなからなければなりません。今日の御霊様のお祭りを境に、もう本当に大事な所を一事、今日は暑いから聞いて頂こうと思ったけれども、また長々とお話しましたけれどもね、どうぞ一つあの学者が眼鏡をかけて本を読む様な、喜びとか楽しみを持ってれる、信心を頂いて頂きたいと思うのでございます。
どうぞ。